あえて言うなら “ 呼吸して生きること “
多くの人は「何のために生きるのか?」とか「自分の使命は何だ?」と、遠くを見過ぎて目先のことを忘れている気がします。
仏陀の教えの中や老子の言葉に『 足るを知る 』がありますが “ 生きる為 “ を秤にかけて働いている人は少ないです。
生きる為もまた勘違いがあって “ 生きる為だけあれば良い “ のに、贅沢をしてみたり人や世間と比べてみたり、必要の無いものまでも手にしては「断捨離します」と宣言してどこか誇らしげだったりする。
死なない程度食べられれば良いのに、肥満や健康を害する程余計な物まで手に、口にする。
そこに更に感謝がなければ、何様だ?と叱責されてもしようがないのかも知れない。
当たり前だと思い過ぎて、1人だけで生きて自分だけが頑張っていると思い込んで、当然の権利だと主張する。
わたしは一体誰に「 酸素を吸っていいよ 」と許可を得たのだろうか?
使った分も同じものを返す事も出来ないのに、当然の権利のように空気を吸っていられることは、有難い話だと知るのだ。
勿論過去のわたしは、そんな事を考えたことも色々な事に有難いと感じたことも少なく経験を積み重ねハッとしただけだ。
家とゆう雨風をしのげる場所に住めているのは、作ってくれた人がいるし木を育ててくれた者も存在する。
電話をする、光をあてる、米を炊く、食材が腐らないように保つ電気があること、そして知恵少なくして生活をしていられる物が発明されている有り難さ
お金で買える事ができる有難い事が当然のようにある毎日。
人がお互い様で生きている象徴は、日常全てなのだ。
何をしても、何をされても、人が生き人が死に、人が学び人が苦しみ人が喜び、人を敬う。
地球やはたまた宇宙そのもを保つ為に、わたしはたった一つの私であり死ぬその時まで、呼吸をし生きていなければならないのです。
ほかの皆も同じように、誰にもなれないし何者にならなくても良いし、大きなことを成さなくても良い。
使命はなんだ!?なんて大口叩いてる時は、何者にもなれない事に気づけもしない、足元をすくわれた状態なのだと思う。
誰に何を言われて、何故ここに居て、何の為に生きているのか、生をなしてこの世に存在してしまったらすっかり忘れてしまった。
最初から「何も言われてないし、何の為に生きなくても良い」とゆう事なのだろう。
わたしは、わたしをやる為に生きているのだ。
使命は、“ 呼吸して生きること “。
それ以外は何だっていい、ちょっときらびやかでもしかしたらみすぼらしいと思われるその程度の飾りでしかないんだよ。
#セオカズヨ
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