こんにちは、セオカズヨです。
先日、稲刈り体験をしてきました。
普段、スーパーなどで購入し、毎日のように食べているお米ですが、なんとなくイメージはついても、お米を作る大変さは中々理解出来ませんよね。
わたしは稲刈り体験と言っても、殆ど何もする事ない見物する事ばかりで「お米を収穫する作業」の更にほんの一コマに触れただけですが、そんな体験から学べる事がありました。
感想としては「今までお米に対して雑な部分があった」と反省する気持ちが湧き、食に対しる考えが改められたので、禅の教えの中にある食の作法「五感の偈」を絡めながら皆さんにも紹介したいと思います。
【 五 観 の 偈 (ごかんのげ)】
五観の偈とは、主に禅宗で唱えられる「食事作法の一つ」で、俳句や和歌と同じような文章 ” 韻文 " で述べられたお経で、それを『偈文(げぶん)』と言います。
またこの五観の偈の内容は、道徳的要素が高いことから禅に限らず様々な分野で引用されています。
それは一体、どのような作法でどんな事がかかれているのでしょうか?
「五観の偈」が和歌や俳句と同じような文章で書かれている・・と言っても、読んだだけではやはり意味が分かりにくいですね。
皆さんは、食事を目の前にした時に「頂きます」と手を合わせる挨拶をすると思いますが、その挨拶作法を更に深く、そして厳しく説いた内容となっています。
<五感の偈訳>
- この食事がどうしてできたのかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝します。
- 自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。
- 心を正しく保ち、あやまった行いを避ける為に、貪などの三つの過ちを持たない事を誓います。
- 食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得る為に頂くのです。
- 今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げる為です。
どれくらいの人が、この覚悟を持って「食」と向き合っているか分かりませんが、飽食の事態とされている昨今ではこういった考えを目の前の食べ物に持つ人は少ないと思います。
また、貪などの三つの過ちは「貪瞋痴(とんじんち)」という三つの煩悩の事で『三毒』とも呼ばれます。
肉や魚といった動物に限らず、野菜や果物にも私たちと同じように与えられた「命」があります。
私たち動物は、自分たちが ” 生きる為 "にその命を頂戴しているわけですから、食べ物を目の前にして『頂きます』と手を合わせることは、最低限の礼儀である事が分かります。
五観の偈は、その命を頂くに価する人間か?そして何の為に目の前の命を頂くのか?
そしてそれを覚悟を持って誓う事が出来るのか?と更に自分の命そのものに刻む為の作法のように思います。
私は、お米が収穫されているさまを見て「可愛い」と思いました。
それは何故かというと、キラキラと金色に似た色で輝いている稲がニコニコとした笑顔で踊りながら喜びに溢れたオーラを放っていたからです。
まるで収穫されるのを待ち望み、自分たちが人間を生かす為に存在している事を知り、やっとそうなれる事を嬉しく思っているように見えました。
そのひたむきな姿を見て「健気で愛おしい」感覚にあふれ、可愛いと思えたんです。
そして同時に五観の偈にあるように、私は彼らの命を頂戴するに価する人間か?
無駄に彼らの命を奪っているんじゃないか?と感じ、反省の念が湧きました。
しかし、反省しても過去の過ちが消えることは在りません。
これから ” 同じこと ” を繰り返す事のないように、気づき、学び、変えて行く事は出来ます。
以前、真理のことをお話する時に幾人かの人に「一は全、全は一」と教えて来ました。
一つのものは、全ての為に存在して
全てのものは、一つの為に存在している。
全ては「お互い様」で成り立っているので、たった一つは沢山のものが成る為に在り。
沢山のものはたった一つが成る為にあるので、何一つが欠けてもこの世の中は成立しないという事です。
あまりにも小さい粒のお米。
しかし、そのお米が支えているものは大きなものだと知ることができます。
皆さんも ” 自分を正しく導く為に、命を頂く "
これを胸に置き、食に対する感謝を忘れないようにしましょう。
#セオカズヨ
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