「自由とワガママ」の勘違い



私はよく「自由だねぇ」とか「自然体で生きられて羨ましい」と言われる事が多々あります。
若い時は同時に「ワガママ」だと強い口調で言われた事をありましたが『自分の感情で突っ走って ” やりたくない! ” など言った事など一度もない、理にかなってない事を押し通して来たからやりたくないと言っただけだ』とゆう事があります。


多くの人は「自由とワガママ」の違いが分からず居るんだな…と思ったので記事にしました。



そんな風に羨ましがられる私ですが『ルール第一』です。むしろこの縛りから逃れる事ができず常にハラハラしてます。
例えば、公共ルールは守るし交通ルールも法律も国が定めた事や学校の規則なんてものは守って来ました。
学校の規則で守らなかったのは『私は怒られても殴られても構わない』と覚悟が決まった事だけで、他人に迷惑がかかることはしませんでした。
迷惑かけられた、なんて思って居る人は多かったとは思いますが感情論で話す人たちの『皆やってるから我慢してやりなよ、皆の気持ちを考えてやりたくなくてもやりなよ、多数決であなたがあげたら叶うから嫌でも挙げて』のような空気読む感覚は分かりませんでした。
私がジャッジすべき事は『理にかなっているか、いないか?』で、それには大元の基礎《ルール》は重要でした。
まぁ、仏陀の教えこそ八正道とゆう理に適ったルールの上に成り立っているのでルール嫌いではありません。

むしろ、交通ルールや法律、学校の規則が無ければ世界は大惨事です。
『自由に生きられる、楽に生きる事ができる』のは、そんなルールがあるからだと思います。
私が今曲がりたいと思ったから曲がったんじゃー!と信号機も無い所で皆が自由な感覚で行動を起こしてたら、今ごろほぼほぼ交通事故でまともに歩くことも出来ません。
強盗や殺人が「ダメですよ!」と言う縛りがなければ、裁くことも出来なくなるとこの世は殺伐として恨み辛みを持った人が増えるカモです。
人はそこに「ルールがあるから犯したくなるんだ!」とゆう馬鹿者もいますが、それがそもそも《個人視点の己のみの考え》です。
この世の中には、そう思ってない人も存在する事を受け止めるのが先のように思います。

子供を産むことで母親となる人は、自分の子供には私のような感情を押し殺して生きて欲しく無い!とゆう意から『自由に育って欲しい』と感じ、間違えた我儘し放題で育てる事があります。

自由に生きるとは、ルールを害していません。
 
簡単な説明をします。
悪い事をしました「謝りなさい!」と躾けました。
しかしその子は「ルールを破ったけど、やりたくなかったからやらなかった」そして「僕は悪く無いから謝らない!」とします。
『悪い事をしても謝らなかった、とゆう事が更に彼を悪者にさせます』
こうなれば、例えそのルールを破った事は差ほどの事でなかったとしてもその子が「悪い子とゆうレッテル」を自分から貼る事で、大人数で生きる世界では生きづらくなります。

私は周りから「自由だね」と言われますが、ルールを破って推し進めたことはないのです。
寧ろ、「おい、並べ!」と隊列を乱すのを気持ち悪く感じたり、店内ではしゃぎすぎると子供には「ここは自分家か!危ないぞコラ!」と注意します。
カートで引きそうになるほど子供たちが鬼ごっこしてる、とか洋服店で洋服の下に隠れて隠れんぼしたり、飲食店の椅子で飛び跳ねる、などは私の格好の餌食です。
しかし、赤ちゃんがギャン泣きするとか注意しても注意しても子供が言う事聞かないとゆう事には、それが仕事で至極当然なので何も感じません。
あまりにも店内で惜しげも無く注意するのでそれを知ってる人と買い物などに行くと『なんであの子はいいの?』と聞かれたり『カズヨに怒られる前に静かにしときなさい!』なんて先に叱ってる事があったりします。

わたしは『感情に任せて自分の都合に合わないから相手を、怒る』と『論理に的に相手が危険に侵される、マナーを破っているから注意を促すために相手を、𠮟る』の違いで、怒ることはありません。
「もーう!カズちゃんが静かにしてって言ってる時は静かにして!!」みたいな感情論破の奇抜な事は抜かさないのです。

しかし、自由に生きさせる事をテーマに持つ人は《自分勝手が許される躾(しつけ)》をするようです。

「自由に生きるための土壌作りは、ルールを害してレッテルを貼らない日常」があってこそです。
また、ルールを破る事が自由に生きる事ではありません。

罪を犯さないから信用は減らない。
信用があるから、自由に生きられる。
信用を持ち続けられる事は、感情論破してマナーを破らない事。
そしてそれは「我儘」と捉えられるのです。
あなたがもし、過去に「我慢してやりたくない事をやって来た」と自由が無かったと感じる事の中に『規則』はなかったですか?
もし、規則がなかったけれど私は自分の感情を押し殺して生きてきたとゆう事に「自分の意見を述べる勇気」がありましたか?

家を継がなければならない、と感じる人の中に多いですが『周りの人が困ったとしても、家を継がなければならない理由は、当人には無いのなら、逃げたって構わない』んです。
そして、もし逃げたらひどい事が起きるのではなく『新しい方法が生まれるだけ』です。
自分で自分の事を分かってもらおうともしなかった癖に、周りのせいにばかりするのはおかしいですよ。
生まれを憎む人が少なからずいますが、どんな生まれであっても「自由に生きる事」はできるのです。
それは単に、あなたの我慢と我儘が作り上げた今であり未来です。

自由とは、人の気持ちを考えなく適当に生きる事ではありません。
人の気持ちを考え過ぎて動けなくなる事も、人の気持ちを自分の考えに合わせる事も我儘です。
我慢も我儘も、楽に生きられるための自由には程遠いものです。


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「歳を重ねても、美しく在る」を理念に、女性の資質と美しさを引き出す総合カウンセリング。
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